城九郎直盛こと芦名直盛の父であった安達盛宗は1185年の霜月騒動で父・泰盛が北条得宗家の内管領・平頼綱に討たれ、第2回蒙古襲来・弘安の役に臨み肥後守護代を務めてより北九州に在った盛宗は蒙古軍副司令官を矢で射止めた少弐景資の居城・岩門城に籠城するが、内管領・平頼綱に与する少弐経資(景資の兄)に攻囲され戦没したとされる。
 従って、諱を盛宗と伝える内管領・長崎円喜が1185年に死んだ筈の安達盛宗であったならば、1317年の文保の御和談で政界にデビューしたと云う円喜はかなりの高齢であったことになってしまう。

 鎌倉幕府が滅亡する1333年まで生きていたとされる長崎円喜の諱が盛宗であったとしても、安達盛宗と同一の人物であったと考えるにはかなり無理が有るが、それでも北条得宗家の被官として内管領に就いた長崎円喜の一族が霜月騒動で内管領・平頼綱から大打撃を蒙った安達の流れを汲む武家であったと考えたい。
 御家人らの中で最も力の有った安達氏が霜月騒動に対して北条氏へ求めた補償が1185年に死んだ筈の安達盛宗の内管領就任であったと思われる。

 織田信長の祖父・信定は京・八坂神社と並ぶ牛頭天王社として識られた津島神社の門前町で、往時殷賑を極めた津島湊を臨む地に居館を構え蓄財を遂げたと伝える。
 信長が足利義昭を奉じて京へ上るや、義昭は信長に副将軍の地位を与えようとしたが、信長はそれを拒み、代わって泉州堺の町奉行権を求めた。

 信長の遠祖が若し鎌倉時代末期の北条得宗家内管領・長崎円喜に辿り着くならば、信長が正室の岳父・斎藤道三と美濃の聖徳寺で会見した折、足軽雑兵らに至るまで大量のマスケット銃を持たせ、道三を甚く驚かせた理由に一定の説明を得ることができる。
 足利一門・斯波高経が越前で新田義貞を討って以後斯波氏が越前守護を任じたが、守護代に就いた甲斐氏なる武家は斯波氏配下の重臣であった織田氏や朝倉氏と異にし、関東出身の武家であった。
 北条得宗家の被官として下野・安蘇郡下に佐野荘を営む武家を出自としたとされ、甲斐の名は肥後・阿蘇郡下で馬匹の生産を行い、鎌倉時代に北条得宗家被官となった一族が先ず甲斐国で馬匹の生産を拡げ、後に下野・安蘇郡下にまで発展した由縁とする。
 ところが、戦国期に至り、肥後・阿蘇郡下の武家は隣接する菊池郡の武家に圧され、菊池郡を跨いだ宇土郡に拠点を移動させたと云う。
 宇土半島の付け根に位置し、八代海に臨む不知火郷は『蒙古襲来絵詞』で安達盛宗に文永の役での軍功を訴えた竹崎季長の在所たる宇城郡松橋郷と隣接する地で、不知火郷下には今も長崎の地名を遺し、西へく伸びた宇土半島のから一衣帯水の地は長崎県や長崎市の呼称を示し、文永の役の後、肥後守護代として九州に赴いた安達盛宗が若し長崎円喜その人であったならば称の由縁に合点する処だ。
 戦国期、旧北条得宗家被官の武家が阿蘇郡から拠点を移した宇土郡の半島からは天草諸島や往古には本土から隔絶した習俗を顕したと云う甑島などへの海運が展開されたものと推測され、海運と所縁を深くする織田弾正忠家が鎌倉末期の内管領・長崎氏に繋がるとするならば、織田弾正忠家は旧北条得宗家被官として戦国期に宇土郡に拠点を移した阿蘇氏とは往古より交易を計っていたことが推測され、為に織田弾正忠家は列島本土を窺うポルトガル人が先ず上陸の前哨地として接近を試みたであろう天草諸島や甑島を介して全国の武家に先駆けてマスケット銃を入手し得た可能性を感得する。(つづく)