伊勢貞継が初めて室町幕府政所執事に就いて以往、応仁の乱の素因を成したと評される伊勢貞親まで伊勢氏が繁く政所長官を任じているが、伊勢氏の下で政所代を務めた蜷川氏なる氏族は醍醐天皇の母方祖母・列子の父・宮道弥益の後裔が越中・新川郡蜷川郷に土着したことを発祥とするとされるが、鎌倉幕府の滅亡を体験した芦名直盛が一族を相模から移住させ、自身の居館を築
いた陸奥・耶麻郡に西接する河沼郡下に蜷川荘と号した荘園が存し、佐原十郎義連の孫・景義の領地であったと伝える古記録を見る。
室町幕府政所執事を任じた伊勢氏の下で政所代を務めた蜷川氏なる一族は多分に陸奥・河沼郡下に領地を構えた一族であったと思われ、且つ三浦氏惣領であった義澄の弟・佐原義連の後裔となる芦名氏と祖を等しくした武家であった筈だ。
城九郎直盛が1340年尾張の小舟津郷を実力で押さえ、同じ年に足利尊氏・直義兄弟の催した後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺供養に参列してより、伊勢貞継が政所執事に就いた1379年まで40年近くの歳月を過ごしているが、足利氏の根本被官であったとする伊勢氏の祖と考えたい義盛が1186年鎌倉幕府によって捕縛・斬首されながら、その息であったと推測する俊経は伊勢義盛と兄弟であった安達盛長が三河国守護に補され、額田郡下の滝山寺に匿われ、俊経の曽孫となる伊勢貞継が足利将軍の世に現れたのも、芦名直盛との関わりを憶測させる。
同時に芦名直盛は陸奥の地に一族を相模から移住させながら、その一部を尾張に扶植し、定着させる意図が在ったものと思料される。(つづく)
室町幕府政所執事を任じた伊勢氏の下で政所代を務めた蜷川氏なる一族は多分に陸奥・河沼郡下に領地を構えた一族であったと思われ、且つ三浦氏惣領であった義澄の弟・佐原義連の後裔となる芦名氏と祖を等しくした武家であった筈だ。
城九郎直盛が1340年尾張の小舟津郷を実力で押さえ、同じ年に足利尊氏・直義兄弟の催した後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺供養に参列してより、伊勢貞継が政所執事に就いた1379年まで40年近くの歳月を過ごしているが、足利氏の根本被官であったとする伊勢氏の祖と考えたい義盛が1186年鎌倉幕府によって捕縛・斬首されながら、その息であったと推測する俊経は伊勢義盛と兄弟であった安達盛長が三河国守護に補され、額田郡下の滝山寺に匿われ、俊経の曽孫となる伊勢貞継が足利将軍の世に現れたのも、芦名直盛との関わりを憶測させる。
同時に芦名直盛は陸奥の地に一族を相模から移住させながら、その一部を尾張に扶植し、定着させる意図が在ったものと思料される。(つづく)