平頼盛は母・池禅尼が平治の乱の後頼朝の助命を清盛に嘆願したお蔭で、治承・寿永の内乱後に平家で唯独り生き残った人物であったが、その息・光盛は1219年鎌倉・鶴岡八幡宮で挙行された源実朝の右大臣任官拝賀式に朝廷の名代として京から下向・参列した。
三浦氏惣領を継承した義村の従弟となる安達盛長こと佐原盛連にとって、三浦氏庶流の立場から惣領家に抗う術として、父・義連は三浦半島中央部を流れ、久里浜の地で東京湾に注ぐ平作川に臨んだ平地の一角たる三浦郡佐原郷を本貫としたのに対し、三浦氏惣領たる伯父・義澄が相模湾に臨む荒崎城を構え、海を渡って鎌倉の地を威圧する態勢を示していた為、荒崎城の北に位置し、丘陵が勢い相模湾に傾れ込む地勢にて、騎馬兵で攻め難い芦名郷の地に頼朝所縁で京下りの人物=平光盛を容だけの領主として納め、惣領家の本城より鎌倉を近くした地から海軍力を以て鎌倉を睥睨し得る都合を得たものと考えられる。
『吾妻鑑』が鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の息らがそうした対立の緊張を生むことを慮り、頼朝は寵臣・大友能直に三浦氏惣領家の本城・荒崎城と佐原義連の息・盛連(=伊豆に配流されていた頃の頼朝の小姓を務めた安達盛長)が惣領家を牽制すべく新たな海軍力の拠点として目を着けていた芦名郷との間に位置する長坂郷・荻野郷の平地を所領として与えている。
頼朝は愛妾・亀の前を葉山・鐙摺に囲っていたが、その世話を三浦氏惣領の義澄の弟であり、佐原義連の兄である太田和義久に委ねており、義久の居城は長坂・荻野両郷に隣接する太田和郷であった。
曽我の里に隣接する酒匂川畔の相模・足柄郡大友郷を本貫とした大友能直の実父・近藤能成は藤原秀郷を祖とする説或は藤原利仁を祖とする説を見るも、源義経とともに京を出奔した藤原隆家流・一条能成が相模・愛甲郡古庄郷の山間に潜伏した姿であって、平光盛の祖母に該る池禅尼もまた藤原隆家の来孫(6世)となる女であり、一条能成の生母・常盤御前は能成の異父兄として源義経を儲けていた。(つづく)
三浦氏惣領を継承した義村の従弟となる安達盛長こと佐原盛連にとって、三浦氏庶流の立場から惣領家に抗う術として、父・義連は三浦半島中央部を流れ、久里浜の地で東京湾に注ぐ平作川に臨んだ平地の一角たる三浦郡佐原郷を本貫としたのに対し、三浦氏惣領たる伯父・義澄が相模湾に臨む荒崎城を構え、海を渡って鎌倉の地を威圧する態勢を示していた為、荒崎城の北に位置し、丘陵が勢い相模湾に傾れ込む地勢にて、騎馬兵で攻め難い芦名郷の地に頼朝所縁で京下りの人物=平光盛を容だけの領主として納め、惣領家の本城より鎌倉を近くした地から海軍力を以て鎌倉を睥睨し得る都合を得たものと考えられる。
『吾妻鑑』が鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の息らがそうした対立の緊張を生むことを慮り、頼朝は寵臣・大友能直に三浦氏惣領家の本城・荒崎城と佐原義連の息・盛連(=伊豆に配流されていた頃の頼朝の小姓を務めた安達盛長)が惣領家を牽制すべく新たな海軍力の拠点として目を着けていた芦名郷との間に位置する長坂郷・荻野郷の平地を所領として与えている。

曽我の里に隣接する酒匂川畔の相模・足柄郡大友郷を本貫とした大友能直の実父・近藤能成は藤原秀郷を祖とする説或は藤原利仁を祖とする説を見るも、源義経とともに京を出奔した藤原隆家流・一条能成が相模・愛甲郡古庄郷の山間に潜伏した姿であって、平光盛の祖母に該る池禅尼もまた藤原隆家の来孫(6世)となる女であり、一条能成の生母・常盤御前は能成の異父兄として源義経を儲けていた。(つづく)