壬申の乱を闘って自ら帝位に就いた天武天皇の血脈を続ける8世紀の朝廷が771年武蔵国を東海道に編入する迄、相模国は東海道の終点であって、そこから房総半島へ東京湾を渡って最初に着く地が上総国、次に向かうのが下総国であったとされます。
 んで、相模国三浦郡に遺る古東海道のルートは国道134号から岐れて横須賀市池上へ向かう"葉山大道"の路程であったと言われ、横須賀市池上に隣接する平作の地を源流に三浦半島最大の河川・平作川が久里浜の河口まで延びています。
 東京湾に注ぐ平作川の河口からは一衣帯水の眺めで上総国と安房国とを分かつ国界を成した鋸山を望むことができます。
 この鋸山より南に位置した内房の地が旧安房国平群へぐり郡であり、『南総里見八犬伝』で知られる富山が見られ、さらに富山より東に向かった房総半島の内陸部に房総では唯一岳の呼称を与えられた伊予ヶ岳の印象的な山容を見ることができます。
 この伊予ヶ岳の麓に展がる盆地が平群の郷で、5世紀の河内王朝で勢威を揮った権臣・平群真鳥の眷属が武烈天皇による真鳥の息・しびの粛清後、大和国平群郡から移徒したものと想われます。
 久里浜の地名は往古に平群浜であったと思われ、久里浜で東京湾に注ぐ三浦半島最大の河川が源流となす平作の地名もまた平群に由来するものと考えられます。
 往年の系図学の権威であった太田亮さんは『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の一族の出自を平群氏と考察しておられましたが、関東で長い年月に亘り雌伏し続けた平群氏の後裔が復権を遂げるべく平安朝期に成長した武士団が鎌倉幕府最大の勢力を誇った三浦氏であったのでしょう。

 1180年以仁王の令旨を承けて平家追討に蹶起した源頼朝が平家与党・大庭景親の軍勢に石橋山の戦いで敗れ、真鶴半島から安房へ向かって船で渡り上陸した地と伝える猟島(浮島)は富山を仰ぐ浜辺から至近の距離で、頼朝上陸地へ注ぐ佐久間川の流域は三浦義明の長孫となる和田義盛のさらに孫となる朝盛が領知していましたが、朝盛は1213年和田義盛が北条義時によって討たれると越後に逃れています。
 これが佐久間氏の家祖であり、その後朝盛は承久の乱の軍功に因り尾張国愛知郡御器所ごきそ郷の地頭職を得て、その後裔が織田弾正忠家配下の佐久間氏となります。
 学校教科書に掲載され夙に知られる織田信長の肖像画が納められた愛知県豊田市の長興寺は斯地に在った挙母城の城代に任じられる佐久間信盛配下の武将が寺に納めたものです。
 信長の父・信秀の代から織田弾正忠家譜代の臣として活動した佐久間氏が鎌倉幕府で最大の勢力を誇った三浦氏を出自とすることは明らかですが、ここで一歩進めて考察したいことは平治の乱で敗れた源義朝の遺児・頼朝が伊豆に配流されていた頃から頼朝の小姓を務めていたとされる安達盛長の素姓です。
 一般に安達盛長は鎌倉幕府宿老として2代将軍・頼家親裁停止後の合議制下に加わった足立遠元の叔父と伝えますが、安達盛長の方が足立遠元よりずっと年下であった筈で、彼の時代にはあり得たかも知れぬとて、どうも不審な点が在ります。
 この安達盛長の姓は陸奥国安達郡に由来するものと思われ、1189年鎌倉幕府が総力を挙げて敢行した藤原泰衡攻めの結果、斯地の領知を認められた人物であったと考えられます。
 その人物が三浦義明の末子たる佐原義連の子・安達盛長であったと推測され、『吾妻鑑』が鎌倉幕府創業の功臣と讃えた三浦義明の末子は平作川の中流域に位置する三浦郡佐原郷を領知していました。
 三浦義明から一族惣領を襲った義澄は相模湾に臨む三浦半島荒崎の地に堅固な城を構えましたが、半島内陸部に領地を構えた佐原義連は伊豆に配流された頼朝の許に自らの息である安達盛長を送り込んでいたと思われます。
 その点、一族惣領の地位に在った三浦義澄の息・義村もまた母方いとこの続柄となる北条義時とともに伊豆に配流されていた頃の頼朝の許には馳せ参じていたことでしょうが、安達盛長にはさらに源義経に侍ていた弟が在ったものと推測されるのです。
 『義経記』は源義経の郎党であった伊勢義盛の父を"伊勢のかんらいの義連"と述べ、これが伊勢国度会郡の義連の意であったならば、伊勢義盛の父は佐原義連であったと考えられます。
 三浦義明は頼朝の父たる源義朝に従って伊勢神宮領であった高座郡下の大庭御厨を侵略した事歴を伝えますが、その息たる佐原義連が伊勢国度会郡下に伊勢神宮と連絡をつける出先を設けていたことは十分考えられます。
 一般に足立遠元の眷属とされながら実に三浦義明の末子・佐原義連の息であった安達盛長は三浦氏の系図では盛連に該り、この盛連の息が北条時頼に与して三浦一族惣領である三浦泰村を宝治合戦で滅ぼす安達義景であったと考えられ、安達義景は三浦氏の系図における横須賀時連に該る人物だと思われます。
 横須賀とは現在米海軍基地が在る三浦半島から東京湾に向かって北に突き出た楠ヶ浦半島の地で、往古より恰好の船着き場であったと思われます。
 源義経の郎党であった伊勢義盛は主が奥州行を遂げる中、主と生き別れたとされ、義盛の息であったと推測される俊経は父・義盛の兄たる安達盛長が守護に補された三河国の額田郡下に見る滝山寺の大檀那として伝える人物であったと思われます。
 その俊経の息が平俊継であり、俊継は息・宗継とともに安達泰盛が霜月騒動で滅ぼされ、三河国守護が鎌倉幕府御家人時代の足利氏に更迭されると足利氏の根本被官として処遇されています。
 そして、平宗継の息となる伊勢貞継が室町幕府政所執事に任じられ、以往室町公方の政所長官職は伊勢氏が世襲することとなりましたが、伊勢氏の許でまた政所代の地位を世襲した蜷川氏なる武家もまた祖を訪ねたならば伊勢氏と等しく三浦氏の出自であったと思われます。
 安達盛長が領知を認められた陸奥国安達郡より西へ向かって猪苗代湖を過ごした山間の地となる往古の河沼郡下に蜷川荘が在ったと伝える文書を見て、文書は蜷川荘の地頭職を安達景義と記しています。
 北条時頼に与して一族惣領たる三浦泰村を滅ぼした安達義景こと佐原時連の息が霜月騒動で滅ぼされる安達泰盛であり、三浦氏が滅びた宝治合戦なる事件は実に三浦氏の庶流たる佐原流が惣領家を倒した事件であって、惣領家を倒した安達義景の息・泰盛もまた霜月騒動で滅びる運命に在ったのです。
 しかしながら、霜月騒動で幕府最大の権勢家であった安達泰盛を滅ぼした北条得宗家被官の平頼綱もまた霜月騒動が起きた年の翌年滅びることとなりましたが、平頼綱を滅ぼした人物こそ鎌倉幕府最末期に権勢を揮った北条得宗家被官の長崎円喜であった筈です。
 鎌倉時代を研究される細川重男さんに拠ると長崎円喜が生涯で最も長く用いた諱は盛宗であったとされ、安達泰盛の息・盛宗その人であったと思われるからです。
 実に北条得宗家被官として安達泰盛を滅ぼした平頼綱をまた滅ぼした人物は親の仇を討ったという話になりましょう。
 上野の国立博物館に収められる『蒙古襲来絵詞』を描かせた竹崎季長は在所たる肥後の地より遥々鎌倉の地まで赴いて安達泰盛に謁見し、文永の役での活躍を訴える場面を描かせており、文永の役の後、肥後守護代として現地に赴いた者が安達泰盛の息・盛宗であって、盛宗は竹崎季長の在所であった肥後国宇城郡松橋郷に隣接する宇土郡不知火郷小字長崎の地に居館を構えたものと推測されるのです。
 宇土郡不知火郷の地は有明海と八代海を分かつ宇土半島の付け根に位置し、斯地から西へく延びた半島のから一衣帯水の地に渡った所が島原半島であり、隣接する彼杵半島の街には諏訪神社が建ち、二度目の蒙古襲来に臨み北条得宗家の被官らが斯地の武家を督励する姿を想像し得て、諏訪大社の神職であった諏訪氏もまた北条得宗家の被官でした。
 現在、彼杵半島と島原半島の地を長崎県と呼ぶ由来も蒙古襲来に因縁を持つことでしょう。
 さて、蒙古襲来を前に鎌倉幕府内で最大の力を揮うようになった安達泰盛の兄弟に三浦郡芦名郷の地を領知した武家が在り、芦名氏は陸奥の会津郡下に地頭職を得て戦国時代まで後裔を伝えましたが、元弘の変で鎌倉幕府とともに命運を共にした長崎円喜こと安達盛宗の息に芦名直盛の名を伝え、直盛はまた尾張国において何処の郡下かは判じ得ませんが小舟津郷をも領知していたと伝えます。
 織田信長の父・信秀は尾張国にて中島郡と海部郡との郡界を跨ぐ地に勝幡城を構え、往古の中島郡下に殷賑を極めた津島湊から上がる莫大な利益から信長の戦国雄飛の素を成したとされます。
 江戸時代末期に編纂された『系図簒要』は何に拠ったものか織田信長の生家を鎌倉時代末期の幕政を牛耳った長崎円喜の後裔としています。
 ところで、徳川家康に仕えた天海僧正を明智光秀の後身とする俗説を見ますが、天海僧正もまた陸奥の芦名氏の出自であったと伝える説を見ます。