バブル経済崩壊の爪痕が愈々顕わになり始めた頃、政界はリクルート疑獄に因る竹下内閣の退陣など、繰り返されて止まぬ金権腐敗の病巣を剔抉すべく上程された小選挙区制導入を図る政治改革法案の可決に血眼になっていた。
 折しも、『責任ある改革』を上梓し、日本新党を起ち上げた細川護熙は政治改革法案を成立させられなかった宮沢喜一内閣に対する内閣不信任案の可決→解散総選挙の後、非自民・非共産の大連立内閣における首班指名を国会で承けた。
 然るに、僅か8ヶ月の短い時間で退陣した細川護熙という政治家を所詮苦労知らずの殿様政治家に過ぎなかったと記憶する人は少なくなかろう。
 しかしながら、世界ではGATTウルグアイ・ラウンドの多国間貿易交渉が始まり、往時を回想する元総理の辞は短い在任期間の中で国益を伸長させることに寄与した働きを十分感得させるものが有る。