
織田弾正忠家の呼称を見出す最古の記録は醍醐寺座主・満済の日記にて、織田氏で初めて尾張守護代に補された織田常松が危篤状態に陥り、満済が見舞いに送った使者に応対した者が織田弾正と名乗ったとするものである。
1428年のことであった。
常松が織田氏で初めて尾張守護代に就いたのは越前守護であった足利一門・斯波氏が1400年尾張守護をも補され、斯波氏の配下であった越前・丹生郡の織田氏から守護代に任じられたからであった。
もっとも、織田常松は主・斯波氏とともに京に在って、尾張に在って守護代の代理を務めた又守護代は常松の"弟"と云う織田常竹であった。
何れにせよ、越前・丹生郡に在った織田氏は15世紀に至って尾張守護代に就く迄、尾張とは縁の無い武家であった。
そこに、尾張の現地でなく、京に在った尾張守護代の織田常松を見舞う為、醍醐寺座主が送った使者は織田弾正と名乗る者の応接を受けた。
その織田弾正なる者はまこと織田の一族であったのだろうか?
尾張にとってよそ者であった織田氏が初めて尾張守護代に任じられ、戦国時代末期には尾張を統一する信長を派したほど抬頭する織田弾正忠家が初めて尾張守護代に任じられた人物の血族を家祖とするのは必ずしも不思議とは言えないにせよ、寧ろ尾張とは縁の無かった武家が尾張と関わりを持った直後には到底現地で有力視された封建領主を味方に引き込むのは自然ではなかったろうか。(つづく)
コメント