安達盛宗 1340年熱田神宮社領の尾張・小舟津郷を実力で押さえた"城九郎直盛"は鎌倉幕府で有力な武家であった安達氏の嫡流が累代称えた通称を冠する処から安達氏を出自とすると思われ、鎌倉幕府が滅びた7年後に尾張の地の一角を押さえた直盛なる者の父が如何なる武家であったかを知りたくなる。
安達氏 安達氏の系図を俯瞰すると1285年の霜月騒動で内管領・平頼綱に討たれた安達泰盛の息として盛宗の名を見る。
 伊豆に配流されていた頃の頼朝に近侍した家祖・盛長の玄孫に該るが、安達盛長なる士は源頼家親裁停止後の幕府宿老十三将合議制のメンバーとして共に加わった足立遠元の叔父とされ、然るに足立遠元は安達盛長より年長であった怪を知る。
芦名氏 そこで、閲覧したい系図が鎌倉幕府内で最大の勢力を誇った武家・三浦氏の庶流たる芦名氏の系図である。
 幕府宿老十三将合議制のメンバーであった三浦氏の惣領・義澄の弟に該る佐原義連の後裔が芦名氏で、鎌倉幕府の滅亡を体験した芦名直盛は幕府滅亡後相模の地より陸奥の地にて安達郡に隣接する耶麻郡下に居館を築いたと伝える。
 しかし、芦名直盛の尊属を窺うと、祖父を泰盛、父を盛宗とし、安達泰盛・盛宗父子と諱を等しくしている。
 実の処、鎌倉幕府で有力な武家であった安達氏とは三浦氏の惣領家と肩を並べる程の実力を擁した庶流ではなかったか。
 すると、1247年に起きた宝治合戦とは高野山に隠居していた安達景盛が北条時頼に与して鎌倉に復帰し、息・義景や孫・泰盛らに三浦泰村討滅の発破をかけたとされる事件が実に三浦氏内部における庶流と嫡流との権力の座の更迭ではなかったかと思われる。
竹崎季長と安達盛宗 三浦氏惣領家を打倒した安達泰盛は鎌倉幕府の最高実力者として文永・弘安の役に臨んだが、文永の役後、泰盛の息・盛宗は肥後守護代を任じて九州へ赴き、現地の武家を督励している。(つづく)