

伊豆に配流されていた頃の頼朝に近侍した家祖・盛長の玄孫に該るが、安達盛長なる士は源頼家親裁停止後の幕府宿老十三将合議制のメンバーとして共に加わった足立遠元の叔父とされ、然るに足立遠元は安達盛長より年長であった怪を知る。

幕府宿老十三将合議制のメンバーであった三浦氏の惣領・義澄の弟に該る佐原義連の後裔が芦名氏で、鎌倉幕府の滅亡を体験した芦名直盛は幕府滅亡後相模の地より陸奥の地にて安達郡に隣接する耶麻郡下に居館を築いたと伝える。
しかし、芦名直盛の尊属を窺うと、祖父を泰盛、父を盛宗とし、安達泰盛・盛宗父子と諱を等しくしている。
実の処、鎌倉幕府で有力な武家であった安達氏とは三浦氏の惣領家と肩を並べる程の実力を擁した庶流ではなかったか。
すると、1247年に起きた宝治合戦とは高野山に隠居していた安達景盛が北条時頼に与して鎌倉に復帰し、息・義景や孫・泰盛らに三浦泰村討滅の発破をかけたとされる事件が実に三浦氏内部における庶流と嫡流との権力の座の更迭ではなかったかと思われる。

コメント