1340年、足利尊氏・直義兄弟は前年に崩御した後醍醐天皇の冥福を祈る為建立した天龍寺にて供養を催し、其処へ同じ年に尾張の小舟津郷を実力で押さえたと記録される"城九郎直盛"が参列した。
城九郎の称は安達景盛-義景-泰盛の3代に亘る安達氏惣領が称えた通称で、城九郎直盛の出自は安達氏であったと思われ、直盛の父は1285年に起きた霜月騒動で北条得宗家の内管領・平頼綱に討たれた安達泰盛の息として、文永の役後肥後守護代を務め、現地に赴き弘安の役に臨んだ安達盛宗であったと考えられ、そも安達氏が源頼家親裁停止後の幕府宿老十三将による合議制下で宿老として加わった三浦氏惣領・義澄の弟となる佐原義連の後裔・芦名氏と同一の武家であったことが推測される。
安達盛宗は『蒙古襲来絵詞』にて鎌倉まで来った肥後・宇城郡松橋郷に在地する竹崎季長より文永の役での軍功の訴えを聴き届けている。
文永の役の後、来るべき弘安の役勃発の予想から肥後守護代を務めた安達盛宗は現地に赴き、虞らく竹崎季長の在所と隣接する肥後・宇土郡不知火郷に居所を定めたと思われ、不知火郷には小字名として今も長崎の地名を見る。
八代海に臨む不知火郷より西へ長く伸びた宇土半島の崎から有明海の東シナ海への出口となる海峡を渡った地は今の長崎県の地であり、長崎市内には北条得宗家被官であった諏訪氏が神職を務めた社の分祀を今に遺す。
1285年の霜月騒動で安達泰盛を討った北条得宗家の内管領・平頼綱もまた翌年平禅門(頼綱の法名)の乱で討たれ、『吾妻鑑』が平頼綱の眷族とする長崎光綱の息として法名・円喜が北条得宗家の内管領に就いた。
三浦氏惣領・義澄の弟たる佐原義連の後裔・芦名氏系図を俯瞰するならば、安達氏家祖・盛長に比定される盛連の子らで後の芦名氏に繋がる横須賀時連には兄・光盛が在ったとし、この光盛が如何なる人物であったかを此処で論ずる暇を避けるが、『吾妻鑑』が平頼綱の眷族とした長崎光綱の息たる法名・円喜はまこと平頼綱の眷族として認められるか。
長崎円喜の諱は盛宗であって、円喜その人は霜月騒動で平頼綱に討たれた安達泰盛の息・盛宗ではなかったか?(つづく)
城九郎の称は安達景盛-義景-泰盛の3代に亘る安達氏惣領が称えた通称で、城九郎直盛の出自は安達氏であったと思われ、直盛の父は1285年に起きた霜月騒動で北条得宗家の内管領・平頼綱に討たれた安達泰盛の息として、文永の役後肥後守護代を務め、現地に赴き弘安の役に臨んだ安達盛宗であったと考えられ、そも安達氏が源頼家親裁停止後の幕府宿老十三将による合議制下で宿老として加わった三浦氏惣領・義澄の弟となる佐原義連の後裔・芦名氏と同一の武家であったことが推測される。

文永の役の後、来るべき弘安の役勃発の予想から肥後守護代を務めた安達盛宗は現地に赴き、虞らく竹崎季長の在所と隣接する肥後・宇土郡不知火郷に居所を定めたと思われ、不知火郷には小字名として今も長崎の地名を見る。
八代海に臨む不知火郷より西へ長く伸びた宇土半島の崎から有明海の東シナ海への出口となる海峡を渡った地は今の長崎県の地であり、長崎市内には北条得宗家被官であった諏訪氏が神職を務めた社の分祀を今に遺す。
1285年の霜月騒動で安達泰盛を討った北条得宗家の内管領・平頼綱もまた翌年平禅門(頼綱の法名)の乱で討たれ、『吾妻鑑』が平頼綱の眷族とする長崎光綱の息として法名・円喜が北条得宗家の内管領に就いた。

長崎円喜の諱は盛宗であって、円喜その人は霜月騒動で平頼綱に討たれた安達泰盛の息・盛宗ではなかったか?(つづく)
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