足利義満によって南北両朝御合体が成り、後醍醐天皇による建武の新政が破綻してより長らく続いた南北朝時代の争乱終結を見て8年を経た1400年、既に越前守護に補されていた足利一門・斯波氏が尾張守護をも兼ねることとなり、斯波氏は越前・丹生郡在地の織田氏から常松じょうしょうを尾張守護代に任じた。
 しかし、常日頃在京する守護・斯波氏ともども専ら在京した尾張守護代・織田常松の下で現地の尾張に在ったのは又守護代の織田常竹じょうちくであった。
 常竹は常松の"弟"と伝えるが、越前在地の武家が縁もゆかりも無い尾張の守護代に任じられ、現地の施政に当り、寧ろ旧から尾張に在った現地の有力な武家を従僕として採用したことは合理的だったと考えられる。
 醍醐寺座主・満済が1428年危篤に陥った織田常松を見舞う為に送った使者が織田弾正と名乗る者の応対を受けたと日記に止めている。
 これが織田弾正の名を史上に現した最初である。

 初めて尾張守護代を任じた織田常松が若し現地の有力な武家を従僕として採用したならば、往時の尾張で有力な武家であったのは何処の武家であったか?
 1340年、前年に崩御した後醍醐天皇の冥福を祈る為建立した天龍寺にて足利尊氏・直義兄弟が供養を催すや、同じ年に尾張の熱田神宮社領であった小舟津郷を実力で押さえたと記録される城九郎直盛が足利兄弟の催した天龍寺の供養に参列している。
 1340年天龍寺の後醍醐帝供養に参列した城九郎直盛と1428年醍醐寺座主が日記に止めた織田弾正との間には1世紀近くも時間の開きが在る。
 城九郎直盛を信長の生家たる織田弾正忠家に結びつけるのは偏えに著者の想像でしかない。

 城九郎は安達氏の家祖・盛長の通称・藤九郎と盛長の息・景盛が就いた朝廷の官途名・秋田城ノ介を併せた称で、安達氏の惣領は景盛以往、景盛-義景-泰盛の3代に亘って通称を城九郎とした。
 であるから、足利兄弟が天龍寺にて後醍醐帝の供養を果たした1340年、尾張の熱田神宮社領を実力で押さえた城九郎直盛は安達氏を出自とすると思われ、しかし1285年の霜月騒動で北条得宗家の内管領・平頼綱に安達泰盛が討たれた為、安達泰盛と城九郎直盛を結ぶ線が途切れてしまう。
芦名氏 そこで、想起される系図が芦名氏系図で、鎌倉幕府の滅亡後、一族を相模の地から陸奥・耶麻郡下に移し、自身の居館を斯地に築いたと伝える芦名直盛の先は源頼家親裁停止後の幕府宿老十三将合議制に加わった三浦氏惣領・義澄の弟に該る佐原義連より派した後裔となり、殊、直盛の祖父を泰盛、父を盛宗とする処は恰も安達泰盛・盛宗父子を想わせる。

 ところで、蒙古襲来の文永の役後、肥後守護代として現地に赴いた安達盛宗は弘安の役で九州在地の武家らを督励して弘安の役に臨み、第2回蒙古襲来の役の後、4年経った1285年の霜月騒動で父・泰盛が北条得宗家の内管領・平頼綱に討たれ、九州に留まっていた盛宗は共に蒙古と戦った少弐景資ともども博多と大宰府の中間に位置する軍事上の要衝・岩門城に立て籠もり、平頼綱に与した少弐景資の兄・経資の軍勢に囲まれ敗死したとされる。
 鎌倉幕府で最も力の有った安達泰盛を討った北条得宗家の内管領・平頼綱自身もまた霜月騒動の翌年討たれたが、その後北条得宗家の内管領に就いた者が長崎円喜であり、法名・円喜の諱は盛宗であった。