醍醐寺座主・満済の日記にて1428年史上初めて現れた織田弾正が1340年足利尊氏・直義兄弟によって催された後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺供養に参列し、且つ同じ年尾張の熱田神宮社領たる小舟津郷を実力で押さえた城九郎直盛と繋がるか、城九郎の称は鎌倉幕府で有力な武家であった安達氏の惣領が3代に亘って称えた名であることから、直盛は安達氏を出自とした者と思われ、その安達氏なる武家は三浦氏の庶流たる佐原義連の後裔・芦名氏と同一の武家であると考えた。
 すると、鎌倉幕府滅亡後、相模の地から陸奥・安達郡に隣接する耶麻郡に一族を移住させ、自身の居館を築いた芦名直盛がまこと尾張の熱田神宮社領を実力で押さえた城九郎直盛であったならば、何故芦名氏が尾張の地を押さえることができたのか。

 1379年、南北両朝分裂の儘、諸国の武家が勤王派(南朝派)と幕府方(北朝派)に分かれて相争った争乱の熄まぬ中、室町幕府政所執事(長官)の職は二階堂行元から伊勢貞継に更迭された。
 以往、伊勢貞継の孫・貞行が足利義満の時代に政所執事へ就き、貞行の長子・貞経と次子・貞国が足利義教の時代に、貞国の息・貞親が足利義政の時代に政所執事へ就いている。
 伊勢氏は古く足利氏の根本被官であったと言われ、その意味は足利尊氏が室町幕府を開く以前の足利氏が鎌倉御家人であった時代から仕えた武家であったとするものと思われ、初めて室町幕府政所執事に就いた伊勢貞継の父を平宗継、祖父を平俊継と伝える。
 伊勢貞継の祖父・平俊継から先は如何なる者であったか?

 そこで想起されることは、鎌倉御家人時代の足利氏にて家祖・義康の孫・義氏が初めて三河国守護に就いてより、義氏の息・長氏、孫・満氏と3代に亘って守護を務めた三河国において、安達氏の家祖・盛長が三河国守護を任じたことである。
安達氏 先に三浦氏の庶流として佐原義連の後裔たる芦名氏の系図を俯瞰すると鎌倉幕府が滅亡するまでの3代に亘る諱が泰盛-盛宗-直盛として、安達氏において霜月騒動に遭った泰盛・盛宗父子の諱と等しくする点を甚く重んじたが、安達氏の家祖となる盛長を三浦佐原義連の息・盛連に比定し、安達盛長の息・景盛を三浦佐原流の芦名光盛に、安達景盛の息・義景を三浦佐原流の横須賀時連に比定したならば、ある種の光明を与えてくれる。(つづく)