建武の新政が崩壊し、京都を脱出した後醍醐天皇が吉野行宮に遷座してより60年近い年月を経て漸く見た1392年の南北朝統一より8年後の1400年、既に越前守護を任じていた足利一門・斯波氏が尾張守護をも補され、斯波氏は越前・丹生郡在地の織田氏から常松(法名)を尾張守護代に任じた。
尾張の地には縁もゆかりも無い守護代・織田常松が危篤に陥った1428年、足利将軍家のブレーンであった醍醐寺座主・満済は織田常松への見舞いに送った使者が織田弾正と名乗る者の応対を受けたと日記に止めた。
その織田弾正なる者がまこと越前・丹生郡に在地した織田氏の一族であったものか、寧ろ尾張の地に縁もゆかりも無かった織田常松が守護代に任じられる以前から尾張に在地した有力な武家が現地を治める為に任用されたものと考え、それが鎌倉幕府の滅亡を見た1333年より7年後となる1340年、熱田神宮社領の小舟津郷を実力で押さえ、同じ年、後醍醐天皇の冥福を祈る為催された天龍寺供養に参列する城九郎直盛なる者の卑属に該る者ではないかと推測した。
城九郎の通称は鎌倉幕府で最有力の武家の一であった安達氏が景盛-義景-泰盛の3代に亘って称えたものであったから、城九郎直盛とは安達泰盛の息・盛宗のまた息・直盛であったと思われる。
安達泰盛の息たる盛宗は1274年の文永の役の後肥後守護代を任じて現地に赴き、弘安の役に臨んで対蒙古戦を指揮・督励し、役の後も九州の地に在ったが、1285年の霜月騒動で父・泰盛が北条得宗家内管領・平頼綱に討たれると、盛宗は弘安の役で蒙古軍の副司令官を矢で射止めた少弐景資の岩門城に立て籠もり、平頼綱に与する少弐経資(景資の兄)の軍勢に囲まれ戦没したと云う。
従って、1317年の文保の御和談で政界にデビューした内管領・長崎円喜が諱を盛宗としたとしても、到底安達盛宗とは別人であったとするしかないが、『吾妻鑑』に現れる円喜の父たる長崎光綱が平頼綱の眷族であったとする伝には疑わしいものを感得し、そも長崎光綱・円喜父子がまこと旧から北条得宗家の被官であったか疑う処である。
なぜならば、『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の末子・佐原義連の孫・盛時こそ北条時頼の時代に侍所々司を任じた平盛時であったと思われ、時頼の兄・経時が執権に就いて4年経った時点で『吾妻鑑』の記す"深秘の御沙汰"なる北条一門・重臣らの会議にて時頼へ執権職を譲り、翌年の宝治合戦で北条時頼が三浦泰村を倒した一連の出来事は三浦義明から一族惣領の位を承けた義澄の弟となる佐原義連の卑属が一族の惣領家を権力の座から逐う企みであったと思われ、
為に北条時頼の執政下に侍所々司に就いた平盛時とは佐原義連の孫・盛時であったと考えられるからだ。
而して、鎌倉幕府の要職に就いた三浦氏庶流の佐原盛時の兄と伝える芦名光盛を『吾妻鑑』は長崎円喜の父・光綱に仮託したものと推測される。
芦名光盛とは如何なる者であったか、それを本稿で論ずることは避けるが、その素姓は源実朝の右大臣任官拝賀式が鎌倉の地で挙行されるに及び、朝廷の名代として京から下向した平光盛であって、 平治の乱後、頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼の孫となる光盛は三浦氏庶流となる佐原義連の卑属、虞らく安達盛長こと佐原盛連から相模・三浦郡芦名郷を分与されたものと思われる。(つづく)
尾張の地には縁もゆかりも無い守護代・織田常松が危篤に陥った1428年、足利将軍家のブレーンであった醍醐寺座主・満済は織田常松への見舞いに送った使者が織田弾正と名乗る者の応対を受けたと日記に止めた。
その織田弾正なる者がまこと越前・丹生郡に在地した織田氏の一族であったものか、寧ろ尾張の地に縁もゆかりも無かった織田常松が守護代に任じられる以前から尾張に在地した有力な武家が現地を治める為に任用されたものと考え、それが鎌倉幕府の滅亡を見た1333年より7年後となる1340年、熱田神宮社領の小舟津郷を実力で押さえ、同じ年、後醍醐天皇の冥福を祈る為催された天龍寺供養に参列する城九郎直盛なる者の卑属に該る者ではないかと推測した。
城九郎の通称は鎌倉幕府で最有力の武家の一であった安達氏が景盛-義景-泰盛の3代に亘って称えたものであったから、城九郎直盛とは安達泰盛の息・盛宗のまた息・直盛であったと思われる。
安達泰盛の息たる盛宗は1274年の文永の役の後肥後守護代を任じて現地に赴き、弘安の役に臨んで対蒙古戦を指揮・督励し、役の後も九州の地に在ったが、1285年の霜月騒動で父・泰盛が北条得宗家内管領・平頼綱に討たれると、盛宗は弘安の役で蒙古軍の副司令官を矢で射止めた少弐景資の岩門城に立て籠もり、平頼綱に与する少弐経資(景資の兄)の軍勢に囲まれ戦没したと云う。
従って、1317年の文保の御和談で政界にデビューした内管領・長崎円喜が諱を盛宗としたとしても、到底安達盛宗とは別人であったとするしかないが、『吾妻鑑』に現れる円喜の父たる長崎光綱が平頼綱の眷族であったとする伝には疑わしいものを感得し、そも長崎光綱・円喜父子がまこと旧から北条得宗家の被官であったか疑う処である。
なぜならば、『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の末子・佐原義連の孫・盛時こそ北条時頼の時代に侍所々司を任じた平盛時であったと思われ、時頼の兄・経時が執権に就いて4年経った時点で『吾妻鑑』の記す"深秘の御沙汰"なる北条一門・重臣らの会議にて時頼へ執権職を譲り、翌年の宝治合戦で北条時頼が三浦泰村を倒した一連の出来事は三浦義明から一族惣領の位を承けた義澄の弟となる佐原義連の卑属が一族の惣領家を権力の座から逐う企みであったと思われ、

而して、鎌倉幕府の要職に就いた三浦氏庶流の佐原盛時の兄と伝える芦名光盛を『吾妻鑑』は長崎円喜の父・光綱に仮託したものと推測される。
芦名光盛とは如何なる者であったか、それを本稿で論ずることは避けるが、その素姓は源実朝の右大臣任官拝賀式が鎌倉の地で挙行されるに及び、朝廷の名代として京から下向した平光盛であって、 平治の乱後、頼朝の助命を平清盛に嘆願した池禅尼の孫となる光盛は三浦氏庶流となる佐原義連の卑属、虞らく安達盛長こと佐原盛連から相模・三浦郡芦名郷を分与されたものと思われる。(つづく)
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