信長の生家たる織田弾正忠家が主と仰いだ清洲城を本拠とする織田大和守家の祖から岐れた武家などではなく、そも越前・丹生郡に在った織田氏が初めて尾張守護代を任じられる以前から尾張に在った武家と推測し、それは鎌倉幕府が滅亡した1333年より7年経った1340年熱田神宮社領たる小舟津郷を実力で押さえた芦名直盛の後裔であろうと考えた。
芦名氏 芦名直盛の祖父・父を泰盛・盛宗と伝える処から、『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の末子・佐原義連の曽孫・玄孫に該る芦名泰盛・盛宗らこそが後世に安達泰盛・盛宗と名を伝えた人物であったと思われ、諱を盛宗と伝える北条得宗家の内管領・長崎円喜は実に霜月騒動で内管領・平頼綱に討たれた安達泰盛の息・盛宗ではなかったかと推測した。
 一般に北条泰時の被官であった平盛綱の息を北条時頼の時代に侍所々司を任じた平盛時とし、平盛時の息を平頼綱、頼綱の眷族であったとする長崎光綱の息を長崎円喜とするが、本稿では北条泰時の被官・平盛綱の素姓を論ずることは避け、北条時頼の時代に侍所々司を任じた平盛時は盛綱の息などではなく、佐原義連の孫に該る人物と考え、後世に盛時の兄として芦名氏の家祖と伝わった光盛は1219年源実朝の右大臣任官拝賀式が鶴岡八幡宮で挙行された折に朝廷の名代として鎌倉へ下った平光盛が三浦氏の庶流となる佐原義連の卑属によって相模・三浦郡芦名郷に容だけの領主として迎えられた人物で、その芦名氏家祖・光盛に仮託された人物がまた『吾妻鑑』に覗く長崎光綱であって、鎌倉期から戦国期に亘って陸奥の地に存続した芦名氏なる武家は北条時頼の時代に侍所々司を任じた平盛時こと佐原盛時の弟と伝える横須賀時連の後裔であったと考えられる。
 詰まり、1247年の宝治合戦とは三浦氏の惣領たる泰村が一族の庶流となる佐原義連の孫・横須賀時連によって滅ぼされたことを真相としたものと思われ、北条泰時の長孫・経時が僅か3年で執権の職を了え、経時の弟となる時頼の執権職継承と得宗専制体制の始まりとは背後から三浦氏の庶流たる佐原義連の後裔が支持した政権であって、其処に元来からの北条得宗家被官らの反撥を惹起しながらも、三浦佐原流の武家が鎌倉幕府を実質的に支配した構図であったと考えられる。
 後世に安達氏の名で伝えられた武家の家祖・盛長は実に佐原義連の息・盛連であって、盛連の実子であった盛時は北条時頼の執権職継承に寄与し、侍所々司を任じて、盛時の弟たる横須賀時連こそ宝治合戦で北条時頼に与し、息・泰盛に三浦泰村を討つべく発破をかけた安達義景の正体であった筈で、安達泰盛こと芦名泰盛は北条時宗を戴きながら蒙古襲来に臨み、泰盛の息・盛宗は肥後守護代として九州に下った後、一般には1285年の岩門合戦で少弐景資の居城にて得宗家の内管領・平頼綱に与する少弐経資(景資の兄)に討たれたと伝えながら、安達盛宗こと芦名盛宗は平禅門の乱で平頼綱がまた討たれるや、鎌倉幕府最大の勢力を誇った三浦氏の最高実力者の位から北条得宗家・内管領の地位へ昇り、鎌倉幕府最末期の権勢家として武家社会に君臨したものと思われる。
 内管領・長崎円喜が生きていた頃に編纂された『吾妻鑑』はそうした三浦氏庶流の立場から北条得宗家の筆頭被官として昇った人物が自己の権力の正当性を与えるべく作られた虚構を創作したものと考えられる。
 長崎光綱は架空の人物で、その息・円喜は実に三浦佐原流の芦名盛宗であった。

 斯かる人物の息・直盛は1333年鎌倉幕府が滅亡するや、一族を陸奥・安達郡に隣接する耶麻郡に移し、斯地に自身の居館を構え、一方で混乱する世情を圧して、尾張の熱田神宮社領であった小舟津郷を実力で押さえ、一族の分枝を扶植したものであろう。
 これが後の織田弾正忠家となり、信長を生んだ。(つづく)