内房線安房勝山駅の在る漁業の港街は海岸の沖合に巨大な岩礁が聳え、浮島と呼ばれる嘗ての猟島は1180年以仁王の令旨を承けた頼朝が伊豆で蹶起し鎌倉へ向かう途次、石橋山の合戦で平家に与する大庭景親の軍勢に敗れ、真鶴半島から船で渡った地とされる。
港街を流れ、東京湾に注ぐ佐久間川の流域は往古に安房・平群郡狭隈郷と呼ばれ、鎌倉幕府が起ち上がった頃には三浦氏の流れを汲む封建領主が領知していた。
佐久間家盛は承久の乱での軍功に因り今の名古屋市昭和区御器所の地を獲得し、その後裔が織田信長の家臣であった佐久間信盛となる。
佐久間川の流れる谷地の南東に伊予ヶ岳の印象的な山容を見て、その麓に平群と呼ばれる盆地が開けている。
『日本書紀』に説かれる平群真鳥は5世紀河内王朝下の権臣であり、一族は生駒山地の東麓となる大和・平群郡を本拠としていた。
真鳥の息・鮪が河内王朝最期の天皇となる武烈天皇に誅されて以往、平群の一族は安房の地の内陸盆地に長らく逼塞したことだろう。
往年の系図学の権威であった太田亮さんはこの平群氏を『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の遠祖出自と指摘したが、三浦半島と房総半島を渡す東京湾フェリーが発着する三浦半島側の海岸を久里浜と呼び、往古の久里浜は平群浜と呼んだ筈で、内房から船で東京湾を渡った三浦氏の遠祖は今の久里浜から平作川を遡り、相模・三浦郡佐原郷の平地に上陸したことだろう。
三浦半島を流れる平作川の呼称は往古の平群川の転訛と思われ、平作川の源流から三浦半島の最標高を示す大楠山の尾根を西へ越えると相模湾に注ぐ芦名川の源流に到る。
源平合戦の一幕たる一ノ谷合戦にて九郎判官に鵯越の奇策を献言したと云う佐原義連の孫とされるのが三浦佐原流芦名氏の家祖とされる光盛だが、光盛の弟・盛時は北条時頼の時代に侍所々司を任じ、次の弟・時連が陸奥・耶麻郡から河沼郡に展がった芦名氏の祖とされる。
この時連の曽孫となる芦名直盛が鎌倉幕府の滅亡を見て、一族を東北に地に移すとともに自身の居館をも東北の地に構えながら、幕府滅亡より7年後の1370年、熱田神宮社領であった尾張の小舟津郷を押領するや、同じ年に足利尊氏・直義兄弟が催した後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺供養に参列していた。(つづく)
港街を流れ、東京湾に注ぐ佐久間川の流域は往古に安房・平群郡狭隈郷と呼ばれ、鎌倉幕府が起ち上がった頃には三浦氏の流れを汲む封建領主が領知していた。
佐久間家盛は承久の乱での軍功に因り今の名古屋市昭和区御器所の地を獲得し、その後裔が織田信長の家臣であった佐久間信盛となる。
佐久間川の流れる谷地の南東に伊予ヶ岳の印象的な山容を見て、その麓に平群と呼ばれる盆地が開けている。
『日本書紀』に説かれる平群真鳥は5世紀河内王朝下の権臣であり、一族は生駒山地の東麓となる大和・平群郡を本拠としていた。
真鳥の息・鮪が河内王朝最期の天皇となる武烈天皇に誅されて以往、平群の一族は安房の地の内陸盆地に長らく逼塞したことだろう。
往年の系図学の権威であった太田亮さんはこの平群氏を『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の遠祖出自と指摘したが、三浦半島と房総半島を渡す東京湾フェリーが発着する三浦半島側の海岸を久里浜と呼び、往古の久里浜は平群浜と呼んだ筈で、内房から船で東京湾を渡った三浦氏の遠祖は今の久里浜から平作川を遡り、相模・三浦郡佐原郷の平地に上陸したことだろう。
三浦半島を流れる平作川の呼称は往古の平群川の転訛と思われ、平作川の源流から三浦半島の最標高を示す大楠山の尾根を西へ越えると相模湾に注ぐ芦名川の源流に到る。
源平合戦の一幕たる一ノ谷合戦にて九郎判官に鵯越の奇策を献言したと云う佐原義連の孫とされるのが三浦佐原流芦名氏の家祖とされる光盛だが、光盛の弟・盛時は北条時頼の時代に侍所々司を任じ、次の弟・時連が陸奥・耶麻郡から河沼郡に展がった芦名氏の祖とされる。

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