学者は『吾妻鑑』が編纂されたのは1300年頃としているから、北条得宗家内管領・長崎円喜が生きていた時、編纂された筈だ。
 『愚管抄』が武者の世になった始まりの年と記す元元年(1156年)から後醍醐天皇が崩御した応2年(1339年)までを記した『保暦間記』は14世紀半ば頃に足利方の武士によって書かれたものと言われる。

 『吾妻鑑』の現代語訳を果たした故・貴志正造さんは和歌山県の生れだそうで、『吾妻鑑』には紀州方言が認められると記している。
 『平家物語』にて一ノ谷合戦での鵯越の逆落としと呼ばれる奇策を進言した佐原義連は『吾妻鑑』が千葉常胤と並び鎌倉幕府創業の功臣と讃える三浦義明の末子と伝え、1186年には北条時政の後任として紀伊国総追捕ついぶ使を務めた。
 『義経記』は九郎判官の郎党・伊勢義盛の父を「伊勢の"かんらい"の義連の子」とし、頼朝の父・源義朝とともに伊勢神宮領たる相模・高座郡下の大庭御厨を侵略した三浦義明と息・佐原義連の何れか、あるいは双方が伊勢・度会郡下に伊勢神宮との連絡を司る出先を設けたことは有り得た筈で、義経の郎党・伊勢義盛は実に佐原義連の子であったと思われる。
 すると、伊豆に配流されていた頃の頼朝の小姓を務めていたとされる安達盛長は足立遠元との眷属関係を伝えるも、足立遠元の叔父とされる安達盛長は足立遠元よりずっと年少であった筈で、安達盛長とは実は佐原義連の息として伊勢義盛とは兄弟の続柄に在った佐原盛連であったと思われる。
 而して、1247年の宝治合戦で三浦泰村の排斥に成功した安達義景とは佐原盛連の息・横須賀時連であった訳で、それは三浦氏の惣領家を庶家が排斥したことを意味する。
 横須賀時連には新宮十郎の通称が伝えられ、時連が祖父・佐原義連所縁の紀伊半島南端に所領を得ていたことを仄めかしている。
 一方、伊勢義盛は主・義経の九州行の途次、船が難破し、主一行と逸れてより、後世にその消息を絶っているが、安達盛長が守護を務めた三河国にて額田郡下の滝山寺たきさんじの大檀那として伝え、足利氏の被官であった伊勢俊経が伊勢義盛の息であったならば、俊経-俊継-宗継と続き、宗継の息として初めて室町幕府政所執事に就いた伊勢貞継の系譜は三浦佐原流の流れを汲む武家であったと考えられる。

 であるから、三浦氏内部で惣領家を逐い落とした佐原流は横須賀時連の息・安達泰盛の時代に蒙古襲来を経験し、泰盛の息・盛宗は肥後守護代を任じて九州に赴き、弘安の役を戦ったが、1285年の霜月騒動で安達泰盛は北条得宗家内管領・平頼綱に討たれ、同年、息・盛宗もまた筑前・筑紫郡下の岩門城で平頼綱に与する少弐経資によって討たれたと云う。
 然しながら、安達父子を討った平頼綱自身もまた霜月騒動の翌年に討たれていることから、鎌倉幕府末期の北条得宗家内管領たる長崎円喜が盛宗の諱を伝える点、安達盛宗がまた長崎円喜として幕府の中枢に坐ったものと推測させる。
 長崎円喜が生きていた頃編纂された『吾妻鑑』に現れる長崎光綱を円喜の父とするが、長崎光綱なる人物は芦名光盛に仮託した人物と思われ、三浦佐原流・芦名氏の家祖とされる光盛自身は1219年鶴岡八幡宮で挙行された源実朝の右大臣任官拝賀式に京から下向し参列した平光盛が安達盛長こと佐原盛連と息・横須賀時連父子による政略の一環から相模・三浦郡芦名郷の領主として迎えられた人物であったと考えられる。
 この芦名光盛の次弟・盛時は僅か3年で執権職を辞した兄・経時の後を襲って執権に就いた北条時頼の時代に侍所々司を務め、三浦氏惣領であった泰村は討たれ、三弟となる横須賀時連の後裔が鎌倉幕府の中枢に坐り、また陸奥・耶麻郡から大沼郡・河沼郡・会津郡下に展がっていった。

 鎌倉幕府最末期の幕政を左右した長崎円喜こと安達盛宗の息・芦名直盛は一族を陸奥へ移住させ、自身の居館を耶麻郡下に構えたが、1370年熱田神宮領であった尾張の小舟津郷を押領し、同年、足利尊氏・直義兄弟によって催された後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺供養に参列している。
 鎌倉幕府の中枢に在った人物の息が斯くも鮮やかに室町幕府方に翻転し得たのも、足利氏の根本被官とされる伊勢氏が実に家祖を等しくする武家であったことが最大の要因であろう。
 越前・丹生郡に在った織田一族から初めて尾張守護代に補任された織田常松じょうしょうが危篤に陥るや、醍醐寺座主・満済が見舞いに送った使者に応対した者が織田弾正と名乗ったと満済の日記に記されたが、この織田弾正が1370年に尾張の熱田神宮社領の地を押領した芦名直盛の卑属でなったならば、信長の生家たる織田弾正忠家とは三浦佐原流の武家であったことになる。

 上野の寛永寺を創建した天海は百歳を越える長寿を遂げたとされるが、なるほど戊辰戦争で一大激戦地となった寺は六本木から東に向かって傾れる尾根の突端に築かれた芝・増上寺とともに江戸城の付城の機能を果たしたもので、家康の側近として天台の大僧正に昇った人物は陸奥の武家・芦名氏の生れであるとする説を見る。
 信長の比叡山焼き討ちに明智光秀は信長の将として加わったが、天海は明智光秀が成り済ました人物であったとする巷説もまた目にする処だ。
 因みに、信長が京の本能寺で明智光秀によって討たれた時、信長の嫡子・信忠は日蓮宗の由緒寺院・妙覚寺に在った処を、変を聞きつけるや誠仁さねひと親王の二条新御所に移り、明智勢に加わっていた伊勢貞興の軍勢に討たれている。
 信長の嫡子・信忠の生母を生駒吉乃きつのとする説を見るが、吉乃の父・生駒家宗は遠祖の本貫を大和・平群郡生駒郷と伝え、鎌倉幕府の権勢家であった三浦氏はまた河内王朝下の権臣・平群氏の後裔であった。