宇津母知神社 慶応大学湘南藤沢キャンパスの近くに宇津母知うつもち神社と号する古社を見る。
 平安朝廷の延喜式神明帳に載る神社だ。
 "うつもち"なる語は今日の日本語では解し得ないが、一帯の地名を打戻と呼んでいることから、往古の西日本に在った王権が東日本に進出した時、東日本に在った勢力の襲撃を打ち戻したことの意と思われる。
 相模川東側の河岸段丘に建つ古社を近くして、朝廷の相模国一の宮であった寒川神社が相模川畔に建てられたのは朝廷の権威が確立された後の時代であろうから、往昔の斯地で激しい戦闘が繰り展げられたことを想像させる。
 往古の朝廷が国土を分けて定めた六十六箇国のうち、なぜか相模国だけは朝廷の国衙が何処に在ったか未だに判明していない。
 その最有力候補地として、一の宮・寒川神社と相模川を挟んだ対岸にして相模国で最も平坦な土地を展げた今の平塚市四之宮に見る前鳥さきとり神社が挙げられる。
 相模のシンボル・大山を仰ぐ広大な平野の一角に建つ神社だが、祭神を菟道稚郎子うじのわきいらつことし、学者に拠れば東日本で同神を祀る唯一の神社だと云う。
 菟道稚郎子とはウジの若い郎党という意で、今の平塚市を往古には相模国大住郡としたことから、オオスミの号が鹿児島県東部であった大隅国の号と等しく、古代王権の威権が及ぶ際涯の地であった筈だ。
 詰まり、相模最大の平野が展がる地にて相模川を防衛線に確保した古代王権の拠点が相模国大住郡であった筈で、その防衛線に東側から迫った敵対勢力と激闘を繰り展げた地が宇津母知神社の建つ地であったことだろう。